浅草五一町会の前身は日本堤一丁目町会で昭和11年11月1日の町域改正により誕生しました。
浅草地方今戸の南部、同田町一丁目の北側一部、同田町二丁目の南部、同千束三丁目の北側一部を編成して浅草日本堤一丁目としました。
以降第二次世界大戦に入って昭和20年3月10日の空襲により町内の全域をことごとく焼失し一面の焼野原と化してしまいましたが、終戦後、先人の努力で復興しました。昭和27年4月講和条約発効後、一時解散していた町会が復活いたしました。
その後、昭和41年10月1日新住居法に基いてやむなく町名改正となり、日本堤通りを隔てて西側が浅草五丁目、東側が東浅草一丁目となりました。
浅草五丁目は64番地~72番地まで(元日本堤一丁目の1,3,5,7,9,11,13,15,17番地)
東浅草一丁目は5,11,12番地と15番地~19番地まで(元日本堤一丁目の2,4,6,8,10,2,14,16,18番地)
町会名は浅草五丁目の五と東浅草一丁目の一をとり、五一と改正し浅草五一町会と称しました。
昭和17年
昭和22年